昭和41年06月13日 朝の御理解
小学校の読本ですね、いわゆる国語です。一番始めにあの、私共の時には、はな、はとというのであった。まめ、ますという、皆さん覚えておられるでしょうか。はな、はと、まめ、ますと言う様な、いわばあの一字づつ教えると言った様な感じですね。は、なと教えながら、次にはは、とと、「と」を一字覚えていけばよい。「ま、め」と、覚えたら次は「ま、す」というふうにこの、一字を教える。
昨日、はとを習うておった、昨日、まの字を習うておったという風にですね、その時もやっぱ、はなはとだったでしょうか。間違うかもしれませんけれどもね。椛目の信心を頂いておると、何かそういう感じで教えて下さっておるように思うですね。ですから本当言うと、昨夜の御理解を頂かないとね、今日の御理解は本当の事分からん。今朝の御理解を頂いて見んと、今夜の御理解はまた分からん。続いておる。そしてそこん中に予習があり、復習を感ずる。ね。信心はやっぱりこれが大事なんですよ。
例えば昨夜の御理解に、私共の信心が、本当なものを目指させておるかどうかということ。そして本当なものでない証拠に、これだもんなという事を一つ悟れと分かれと。それが本当なものになって参りませんとです、本当のおかげをキャッチする事が出来る。というて、誰も彼も、その本当の信心になっているじゃないですけれども、結局は本当の信心を求めておるかどうかと言う事。もうこのくらいでよか。もう一通りのことは分かったと。お道の信心はそんなものじゃない。
先生が言われる事はいつも決まっておる。磨け改まればっかり。ね。それではあんまりお道の信心は浅いものにしてしまう。だから本当なものを目指させてもらう為に、先ず自分の信心が本当なものにならなければならん。だから本当なものを目指さなければいけん。本当なものでない証拠。分福茶釜じゃないけれども、ちょっと火をかけられるともうしっぽを出すじゃないか。本当なものでない証拠なんだ。本当のものでない証拠という事をいつも分からせてもらう。
そして次の本当のものへと、精進していくんだ。だから、本当のものから本当のものを追求して行く、目指して行くという事は、ね、そういう信心が本当なものだという事。ね。どこまで行っても、だからキリが無いことが分かります。真実から、真実を追究していくことなん。昨日の、学生会の方達が、頂いた御理解だったでしょうか。最近お道でこの前向きの信心という事を頂く。ね。前進から前進を遂げていかなければならないという意味でしょう。
果たしてお互いの信心が、前進から前進を遂げておるだろう。果たして前向きな信心をしておるだろうか。今日、今私が申しました、そんな事なん。本当な事から本当に向かって神様に向かっていく。和賀心が神に向かうていくのを、信心というのじゃとこう仰る。本当なことへ目指していきよるかどうかと、いう事を確かめなければならん。でないと、信心も、いわゆる本当のおかげに触れられない。ですから、絶えずそういう信心はどういう事になっておるかといういつも、これでよいかと。
答えは、いやこれじゃいかん、という答えが出なければ、それは前進じゃない、という事。いわゆる教祖の神様が、これで済んだとは思いませんと、神様の前におっしゃっておられるような、それのようなもの。果たしてお互いの信心に、これで済んだと思えておるような事はないだろうかと。これで済んだとは思わんと言う事。次にこれで済んだとは思いません、ならと次にこれで済むというところまでを、目指していくのだけれども、これは限りない事。
なるだけ精進させて貰っても、どれだけ一生懸命ならせて貰っても、これでよいという事はないのである。問題はお互いの心の中にです、これで良いだろうかこれで良いだろうか、といういわば反省がなされなければ。同時にこれでよかは頭がない。これでおかげの受けられる筈がない。と言いながらです、信心を進めて行く内にです、振り返ってみるとおかげの方が付いて来ている。そういう信心には途絶える事がない。
皆さんそう思われるだろうか。これでよいと、ね、もうこれ以上の事は出来ん。もうそこまでで止まっておるような事はなかろうか。そういうところにおかげが止まる。信心が足踏み状態というのは、そう言う様な所。絶えずこれでよいだろうか、いやこれではいけないという答えが出ておるかどうかと言う事。これが昨日言われた、昨夜にかけての頂いた御理解である。例えば修行一つでも、自分がほんなもんじゃないのにね。ほんなもんの事には言われるけれども。
ほんなもんにみえておるけれども、一切自分自身がその内容を振り返って見る時にほんなもうじゃないもんなと言うことなん。その証拠にはちょっと、熱い思いをしたらもうしっぽを出しておるじゃないかと。ね。これではならんと、そこからまた、一段と生き生きとした心で、神様に向かっていく。最近のお互いの信心の傾向というか、現在椛目の信心の生き方というものが、お互いの信心がそれに沿うておるだろうか。やはりそれに沿うていかにゃいけん。
昨日竹内さんのお母さんが夕方お参りしてきた。丁度、富永先生の奥さんも一緒にお参りになっておりましたから、ここでお茶でも頂きながら、お話をさせて頂く事です。で私共控えのあの、水槽があります。あれは大きな米ばちですけれども米ばちを、水手洗いの鉢に利用しておるわけなんです。ですから水道があそこに、いつも落ちておりますから、水の音がずっとしよる。けれども出しよけばよいけれども、全然音もない。
すうとそれこそ、限りなしにお恵みの水を頂いておるんだけれど、お恵みの水が出よると言うことが一つも分からない。スーと落ちておるから。そこで私はあれ、あのひねり一つで音がする。丁度谷川なら谷川を感じさせるような音がでる。でなかったらあれは点滴です。しとしとしととこう落ちる。今その点滴です音がする。思わずそれに聞き取れる。思わずそこを見せてもらうとです、あの水槽一面にです、いわゆる波が見える。ちょっとこう、水の雫が落ちております。ね。
ずっとこう頂き続けておる時には、出ばなしに出ておる時にはです、気がつかない。音がしない。けれどもそれを私共の工夫でですちょっとこう、出しますとそこではあれが、左側の隣にずっとこういつも音がしておる時もあるけれども、例えば点滴の場合、雫の場合は雫だけで結構楽しまれる。一つのリズム感がある。だけではないその水槽の中に、波がいつもたっておる。あそこに湖を感じたり、または海を感じたりすることが出来る。あの音に聞き入れておくと、心が静まるような気がする。
なんとはなしに有難いと言う様にです、ね、神様の限りないお恵みの中におるとです、そのお恵みをお恵みと感じきらない。分からない。そこで私共がちょっと心を神様に打ち向けて工夫をする。そこには丁度点滴の感覚を置いてと言う様にです、もう神様の働きちゃ恐れ入るなと、それをいつも感じなくてもです、それを例えば、何時間おきに感じたらどうでしょうか。ね。まぁいうなら一時間おきなら一時間おきにそれを、本当に実感したら、実はずっと頂き続けておるのだけれども、ね、そこが私共分からない。
先日から、古賀先生が参りまして、帰ります時もそうであった。ね。私すぐきますとお神酒を一升、一本つづことづける。もうめったに参ってこんから。それで実際やっぱりおかげを受けておる。(?)お神酒を頂く。それでまた一本を頂いておるのだけれども、まぁこれが当たり前のようになっておるから、有り難いも何もない。当たり前のようにして頂いて帰りよるから。ところが親先生の祈りの中にあるんだな、と言う事をある事で次々と感じていった。
久留米の駅についたら、もう電車が来ておる待っておるようにしておった。乗ったドアが閉まった。行きだした。原田についた。もう五、六分で最終の飯塚行きが来るというところであった。手紙にそんな事が書いてある。そのときにです、そうこんなにもタイミングよう、こんなにもおかげを頂く、こんなにふが良いということが続く訳がない。祈りの中にあるのだなあと、思った途端に下げておるお神酒のほうに、はぁと気が付いた。こんなに椛目のこの、お神酒というものは大したものだ。
無い命が助かったりね、このお神酒さんのおかげで、おかげを受けておる沢山の人達があるようにです、自分はそれを一升も頂いていきよる。それにはここで頂きときに、広大なものを頂きました、有り難うございますというて、押し頂いただろうか。当たり前のようにして、頂いて帰りよった事に気がついてから、あただに有り難くなったということが書いてある。ね。そこにです、点滴を感じたわけなんです。そこに波立ちをみたわけです。そこに神の声を聞いたわけです。いわゆる雫の音を聞いたわけなんです。
心が静まった。有り難くなった。下げておるお神酒がいよいよ、有り難くなったというわけなんです。ね。お互いがそういうおかげをです、私共がそのおかげだな、おかげだなとこうその、おかげと言う風に感じる時、私共はおかげの中にあるのだな、お恵みの中にあるんだなと、いや湿っておるような心であっても、そういうところにそういう場合に直面する時です、おかげの中にあったのだなあとまた、心が蘇る有り難い心に。ね。そういう私は工夫がなされなければならない。
けれども、心が神様に向かうておらんとです、そういう働きがあっておってもそれを感じることが出来ない。ね。いやお気づけを頂きよっても、お気づけをお気づけと気ずかない。感じることが出来ない。工夫不足である。不思議に私共の心がです、神様に向かい、そして、神様のそうしたお恵みというものを、自分の心におかげを頂いておるのだなと、それを自分の心に頂きとめることが出来ると思う。ね。そこから、おかげを引き出すというか、ね、おかげを受け止めることが出来る。ね。
有り難い心をいうなら持ち続けることができる。おかげというものはもう、おかげの中に実は浸っておるのであり、おかげというのは、神様の働きかけというのは絶えずあっておるのだけれども、私共がそれをキャッチ出来ないのは、私共がこれでよいかと、という前向きの信心が出来ていないところに、それをキャッチする事が出来ん。いやぁこれではならんという反省が成されておらんからである。
その人その人なりの信心修行がです、本気でその修行に取り組ませて頂く時に、それが本当なもので、それが細やかであっても本当なものである時に、本当な事を感じる事が出来る。本当なものでないところに、本当の事を本当に感じる事が出来ない。本当なものでない証拠に神様のおかげを本当にこれに感じとる事が出来ない。ね。私共ここんところを、一つ大事にしていかなければいけない。本当なものを自分の心の中に、感じさせて頂く為に、私共がいつも本当の信心を目指さなければならない。ね。
振り返ってみる時に、それは本当の信心じゃなくても、いつも本当の信心を目指すという意欲を持って、おらなければならない。これでよいのか、いやこれではいけんのだといういつも答えを、いつも出しておらなければいけん。また、本当の信心とはと次に追求する心。そういう追求してやまない心がです、神様の本当のおかげを、キャッチしていく事が出来る。おかげと感じることが出来る。おかげと感じる時に、はぁこれもおかげだった、あれもおかげだったと分かってくるわけ。ね。
そこに私はおかげの受けられる、ね、もうおかげというのは、もう面々として続いておるのである。それを私共の信心が途切れるところに、いやこれでよいと言った様な思い方をしておるところにです、いわばおかげの実感というものが薄らいだり無くなったりする。ね。お互いの信心は、一つ信心の修行というものをです、これではいけない、なるほど分福茶釜のようなものだなあと、ね、今度こそと本当のことへ向かって進んでいくという、信心の修行が繰り返されなければならない。
昨日から、昨夜そして今朝のご理解に、まぁいうなら、小学校の一年生の第一ページに教えてもらえる、「はな、はと式」に、今日は私は皆さんに聞いて頂いた積りである。ね。「は」の字は昨日覚えておった。だから、「と」という字を覚えた人もある。「ま」の字だけは昨日覚えておった。だから今日は「ます」の「す」の字だけを覚えたと言う様なものがその御理解の中にあったと思う。
どうぞ、おかげを頂きますように。